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| ■北海道売薬と堀田重良 | ・北海道配置家庭薬協議会札幌業務支部(旧石狩売薬同業会)の沿革 | ||
| ・昭和4年(1929)5月 富山県売薬組合本支部代議員選挙 | |||
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・昭和11年(1936)5月 富山県売薬最寄会連合会の状況 | ||
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| ・石狩支庁管内の自治体について | |||
| ■地元水橋に残る堀田重良の足跡 | ・水橋での事績 | ||
堀田重良伝
−北海道売薬で活躍した水橋売薬商−
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| 義祐碑 (富山市水橋曲渕) |
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| 大正はじめごろ 堀田重良 |
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| 堀田保命堂社印 |
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| 水橋新大町の街並み (左手が堀田重良屋敷跡) |
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| 新大町八幡社 社号柱 (寄進者の一人として堀田 重良の名が刻まれている) |
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| 新大町八幡社 社殿天井絵 (堀田重良寄進の絵) |
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| 昭和12年(1937) 新篠津騒動のころの 堀田重良 |
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| 重良の妻コト |
(重良の出自と売薬業との関わり)
堀田重良は、明治13年(1880)12月6日、堀田平一・クニ(石川県上新川郡上條村大字上曲渕村六〇四番地*1、*2)の次男として生まれた。上曲渕の堀田家は地元では古い家柄で、江戸末期には重良の祖父の三郎兵衛(義祐)が曲渕村(明治以降上曲渕村と改称)肝煎を、明治以降は父である平一(義正)が上曲渕村戸長、助役、村議等を務めている。
また三郎兵衛・平一親子は和算家でもあり、水橋浦の漁業権を著した網図*11作成(平一)、明治維新では地租改正時の測量作業と絵図面作成(三郎兵衛、平一)など数々の事績を残している。また富山市水橋曲渕には三郎兵衛(義祐)を顕彰して明治9年(1876)11月建立された義祐碑が今も残っている。
*1 富山県
富山県 - Wikipedia
*2 上新川郡
上新川郡 - Wikipedia
*11 網図
沿岸台網敷設図面(財団法人水橋郷土史料館収蔵)
| 堀田三郎兵衛 義祐 | ━ | 平一 義正 | ┳ | 平兵衛 | |||||||
| 文政4(1821)− 明治28(1895).12.10 |
天保7(1836).5.2− 明治34.3.15 |
┣ | 重良(平邉) | ||||||||
| ┃ | 明治13(1880)12.6− 昭和14(1939)10.15 |
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| ┣ | 元行 | ||||||||||
| ┣ | ハル | ||||||||||
| ┗ | ヨシエ |
重良はもと平邉といい、幼いころに他家へ養子に出たが、その後堀田家に戻ることになった。
他家からの復籍が原因なのか、明治36年7月に改名し「平邉」から「重良」となった。
明治38年(1905)12月1日には東水橋に移り、同地で代々売薬商であった加賀谷仁兵衛*3の血筋の老田政次郎・ヨ子の長女コトと結婚した。重良は東水橋に移った前後から売薬業に携わることになった。
*3 加賀谷仁兵衛
江戸中期からの水橋売薬商。「魚躬屋」「加賀屋」の屋号を使い、他国出売薬(越後、信州、上州、甲州、駿河)と御国廻売薬(越中、能登、加賀)を行った。本姓杉田。
(水橋売薬と担い手の一人としての重良)
東水橋は、当時、白岩川を挟んで対岸の西水橋とともに、売薬、海運、そして北洋漁業で栄えた町で、平安時代まで歴史をさかのぼることのできる地域でもある。この水橋における売薬業は、いわゆる「越中富山の薬売り」の一中心地(当時は加賀藩越中領)として富山藩領富山町に次いで江戸中期に発祥し発展してきた伝統の地域産業であった*4。
重良はこうした水橋売薬の担い手の一人となったわけである。
彼はその後、売薬商としてひとり立ちし、「堀田保命堂」のブランドで、最盛期には10人前後の従業員を雇い、活躍することになった。
*4 水橋の歴史と売薬業
水橋について、「越中富山の薬売り」と水橋(水橋売薬ウェブサイト)
(堀田保命堂)
堀田保命堂の売薬行商圏は、遠く北海道(札幌、旭川、小樽、函館など)から西は四国、九州(別府など)にまでと全国にわたったが、なかでも札幌周辺の石狩支庁管内を中心とした北海道売薬に最も力を注いだようである。
春から秋にかけては北海道など北日本を、冬は南の暖かい地方を行商して廻った。
伊豆の伊東などにも行商したという。また、地廻り(富山県内、たとえば入善や生地など)も行っていた。
重良らが北海道へ売薬行商に出向く際は、水橋浦から汽船に乗船して日本海航路を北上し、小樽に上陸、陸路札幌市内に至る。彼らはここを起点に札幌市内、札幌郡、千歳郡、旭川周辺をはじめとする行商先を回商したようである。
重良の活躍した時代は、自家製剤から薬剤師による製剤への転換期であったが、薬の包装は若い衆(従業員)はもちろん、家族も総出で行った。
当時、薬種は新庄の金岡*5、中新薬品から購入していた。漢方薬のうち、実母散等のいわゆる「においもの」と呼ばれる高級薬種は主に金岡から仕入れた。
*5 新庄の金岡
富山売薬と金岡邸 - 金岡邸
(水橋での事績)
重良による地元水橋での事績についていくつかあげたい。
水橋新大町にある八幡社の社号柱は、大正15年に氏子有志により寄進されたものであるが、この寄進者の一人として、重良の名が刻まれている。
この八幡社は江戸享保期に新大町が開かれた際に勧請されたもので、もともと御神体として神農像が祭られ、地元水橋売薬人たちの信仰の対象となってきたとおり、売薬とは関係が深い(明治に入り、水橋神社境内に神農像を遷し海士ヶ瀬神社を建立している)。
同社社殿は格子状の天井になっているが、この格子ひとつひとつに和歌を題材にした絵がはめ込まれている。この中に重良奉納の絵*6がある。
*6 八幡社と重良
水橋での事績
(重良の業界活動)
重良は売薬業界における団体活動も積極的に行い、活躍していたようである。
大正5年(1916)、彼は札幌を中心とした石狩地方の同業者と図って「石狩売薬同業会*7」を結成し、初代会長となっている。大正7年(1918)には北海道全道レベルの組織「北海道売薬同業組合」が結成され、石狩売薬同業会は同組合の「第四業務支部札幌最寄会*8」となった(現在の富山県配置家庭薬北海道部会札幌支部)。重良はこの後も札幌最寄会の会長などを務めた。
また昭和7年(1932)に結成された富山県売薬最寄会連合会にも理事として名を連ねている(「昭和11年(1936)5月 富山県売薬最寄会連合会の状況」という文書では、富山県全北海道売薬同業会の理事*9として彼の名が記されている)。北海道売薬では顔役としての地位を得ていたといえる。
重良は当時、業者仲間の伊藤美喜夫、押田康平、酒井徳三郎、広瀬仁十郎、市川市之助、渡辺儀三郎らと関係が深かったようである。
*7 石狩売薬同業会
北海道配置家庭薬協議会札幌支部(旧石狩売薬同業会)の沿革
*8 札幌最寄会(旧石狩売薬同業会)について
昭和9年(1934)10月 札幌最寄会申合規約
*9 富山県売薬最寄会連合会の理事
昭和11年(1936)5月 富山県売薬最寄会連合会の状況
昭和12年(1937)重良が会長を務める札幌最寄会の組織地域内であった石狩郡新篠津村において売薬不買運動*10 がおこり、大きな問題となったが、重良は会長として奔走し、無事事態を収拾させた。
*10 石狩郡新篠津村での売薬不買運動
昭和12年(1937)10月 新篠津騒動
(重良の晩年)
昭和14年(1939)10月、重良は行商先の札幌市で病に倒れ、北海道帝国大学付属病院(札幌市北十四条西5丁目)に入院したが、この地で帰らぬ人となった(享年58歳)。
堀田重良伝(©加賀谷 健 2005)