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| 堀田重良伝 | |||
| 〔資料と解説〕 | |||
| ■売薬請売営業許可と売子 | ・昭和12年(1937)11月 売薬請売営業許可、営業者、従事者一覧 | ||
| ■売薬方名 | ・明治42年(1909)5月〜昭和6年(1931)1月 売薬方名一覧 | ||
| ■北海道売薬と堀田重良 | ・北海道配置家庭薬協議会札幌業務支部(旧石狩売薬同業会)の沿革 | ||
| ・昭和4年(1929)5月 富山県売薬組合本支部代議員選挙 | |||
| ・昭和9年(1934)10月 札幌最寄会申合規約 | |||
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・昭和11年(1936)5月 富山県売薬最寄会連合会の状況 | ||
| ・昭和12年(1937)10月 新篠津騒動 | |||
| ・石狩支庁管内の自治体について | |||
| ■地元水橋に残る堀田重良の足跡 | ・水橋での事績 | ||
[資料]新篠津騒動
北海道の売薬返戻問題(昭和十二年)
「北海道札幌近郊新篠津村においては全購聯売薬配給本縣売薬を一括収集せしため札幌小最寄会長堀田重良氏より荒木縣売薬組長へ陳情なし来りしにつき荒木組長は堀田氏に対し本縣売薬蒐集現場の写真撮影並に相手方の組合名、責任者名の調査方を指示して内務省内の北海道出張所を訪問しこれが調査方と取締是正方を陳情し更に商工省に新倉商務局長を訪問陳情し、尚重ねて北海道出張所へ是正方を依頼して承諾を得、十月二十二日縣売薬同業組合へ出先最寄会より関係者氏名、戸籍抄本、配置売薬の蒐集現場の写真等送付来りしにつき対策に乗出すことになれり。尚組合にては北海道最寄会長堀彦次郎氏旅行中につき評議員中島重馬氏と協議善処なし居れり。」
(出典:富山県売薬同業組合沿革史 富山県売薬同業組合刊)
新篠津組合の配置問題
「昭和十二年新篠津の農村では富山の売薬に利益を持っていかれないために、農村の組合で売薬業をはじめ各家々へ薬を配置した。そして今まで置いてあった富山の薬を集会所に集めて使わぬことにしたという知らせが入った。皆が農村地帯を廻っている時でした。業者はあわてて各地に集合した。札幌中心の人々も当別にたくさん集まっていたので、札幌から夜提灯を下げて当別へかけつけた人もあった。県売薬同業組合へ電報を打ったり、方方へ知らせて早く解決しなければならないと大騒ぎになった。江別にも大勢の人が集まっているというので、江別へ行き合流してバスに乗り新篠津に向かった。駐在所の巡査を道案内として農家を一軒一軒廻り、集合所に集めてあった薬箱を出して貰って写真に撮り引きあげた。
その晩に村の有志とこちらは会長堀田重良、副会長成田儀兵衛と佐伯慶治・黒田敬蔵・山内重太郎・日水与太郎等の役員や問題になった新篠津を廻っている島田繁太郎とが会合を開き、継子扱いをして呉れるなという話をして話し合ったら了解したというので円満解決して分れた。」
(出典:北海道売薬史 北海道配置家庭薬協議会刊)
[解説]新篠津村 石狩郡新篠津村
この村は南行してきた石狩川が流れを西方向に変える地域の内側にあたり、村内に篠津川が貫流し、村全体が平坦で地質は河川沿いの沖積土以外は大部分が泥炭地であった。したがって長い間畑作だけを行っていた農村であったが、水害による被害に悩まされ続け、早く開けた周囲に比べ、入植・開拓が進みにくい状態だった。
大正初期に着手した石狩川治水工事は、昭和9年(1934)に始まった第2期工事で完成し、さらにさらに昭和30年(1955)以降、北海道開発の中核として石狩川水域総合開発が計画され、世界銀行の融資を得て篠津大運河の開削を中心に、排水・客土・造田・道路建設などの事業が大規模に進められ、昭和45年(1970)に完成し、用水確保等も可能になり、それまでの畑地を水田に変え、原野は一面水田地帯に変わった。
明治16年(1883) 月形監獄吏員・熊田直之が監獄下流域に入植
明治27年(1894) 兵庫県宍粟郡出身者による宍粟農場(集団入植の最初)
明治29年2月20日 篠津村から分村し新篠津村開村
昭和2年5月 当別(現当別町)〜江別(現江別市)間、当別〜石狩(現石狩市)間の乗合自動車定期便運行開始
昭和4年4月16日 江別〜新篠津市街乗合自動車定期便運行開始
昭和5年(1930) 北村から袋達布地区を編入
・新篠津村史 新篠津村史編纂委員会編、新篠津村刊
・新篠津村郷土資料館 新篠津村第46線北12番(新篠津自治センター内)
[解説]当別町 石狩郡当別町
当別町は明治4年(1871)に仙台藩一門岩出山の伊達邦直主従により開拓の鍬が入った。戊辰戦争の敗北により甚だしく滅封を受け困窮し、北海道の開拓に活路を見いだそうとした伊達邦直が1869年移住計画を発表して以来、家老の五妻鎌が、開拓の一切の計画や要路に対しての交渉にあたり、参加する家臣の募集、資金調達に努めた。
さらに新政府に対する申請書の提出から分割地調査、渡道の船の手配まで奔走し北海道への移住を推敲させた。
渡道は果たしたものの、厚田近辺を転々とした結果、石狩川流域のこの地に主君を中心に入植した。資金作りに石狩の倉庫の建設も請け負ったこともあるという。
また同じく代々家老職を努めた家柄の鮎田如牛は未開の土地を開くと同時に、一方で教育によりさらなる発展をと考え、翌年塾を開設し子弟の教育にあたった。明治12年(1879)五妻は初代当別村戸長に就任、米国から短角牛を購入するなど畜産事業も始めた。
今も伊達家の数々の遺品は伊達記念館に収蔵・展示されている。
彼らの開拓の苦労は、1905年(明治38年)ビトエに生まれた本庄陸男の小説「石狩川」にも描かれている。
士族移住としては1882年(明治15年)には鍋島直大の臣下の旧佐賀藩士が入植している。
昭和9年(1934)札沼線が当別まで開通し、現在は新十津川まで通っている。石狩川支流の当別川泥炭地帯は、客土工事により、水田も開発された。基幹産業は農業で、養鶏・豚を中心に畜産も行われ、畜産加工品も製造している。
昭和22年(1947)に町制を施行した。近年、札幌大橋の開通、学園都市線と愛称を付けられた札沼線の整備により札幌への往来が便利になったこともあり、近年札幌のベッドタウン化が進み、「スウェーデンヒルズ」として一大住宅地も広がっており、また東日本学園大学(現・北海道医療大学)も誘致している。
[解説]江別市
市の市街地北東部、石狩川左岸にある地区、対雁は文政年間から上対雁が石狩13場所の一つとなり、幕末には番屋が置かれていた。
維新後、明治4年(1871)に宮城県から対雁への入地があり、その後明治11年(1878)に屯田兵として岩手県から12戸が元江別に、江別太に10戸56人が入植し、開拓にあたっている。
その後も屯田兵の入植が相次ぎ、明治19年(1886)には新潟出身者で組織された北越殖民社が江別太で開拓を始めたが、初代指導者大橋一蔵の急死により、第1回衆議院議員の地位を辞して関矢孫左衛門が2代目指導者となり、事業を野幌へも広げ稲作にも成功、、村を整えていった。
今もその業績をしのび、住居跡が千古園として公園になっている。
明治14年(1881)の屯田兵の入地により篠津村が設けられ、江別村・対雁村・篠津村を合併して江別村となる。
大正5年(1916)町制、昭和29年(1954)市制を施行している。
江別レンガの歴史は、明治24年(1898)に江別太で生産が始まったところまで遡り、明治31年(1898)北炭により野幌にレンガ製造所が創設され、以後野幌レンガの名で知られ、現在も道内唯一のレンガの産地として百余年の歴史を持っている。 明治41年(1908)には富士製紙(株)江別工場も操業開始、その後王子製紙と合併、現在に至っている。
1960年代、札幌のベットタウン化が進み、経済・行政の中心札幌圏にあり、北海道縦貫自動車道が走り、交通・流通網が整備されているなどの地域条件から、先端技術の研究・開発、バイオや情報機能の構築を図るリサーチ・トライアングル・ノース(RTN)構想を進めている。
[解説]石狩市
慶長年間に、松前藩が石狩場所を設置したのに始まり、1706年には能登の村山伝兵衛が請け負う。明治時代まで北海道のサケの漁獲量の半分を占めていた。石狩13場所の元場所として栄え、今も弁天町には村山家が1816年に再興した石狩弁天社が残されている。
石狩町大字舟場町と若生町を結ぶ渡し船は明治以前から設置されていたが、明治4年(1871)、開拓使の取り締まりのもとに施設渡船場が開かれたのが本格的な始まりとなる。
明治4年(1871)には、岩手県・宮城県から生振原野に29戸、花畔地区に岩手県から39戸129人が移住しているが、開拓は困難を極めた。明治26年(1893)、花畔・軽川・生振の原野に植民区画が設定、土地の貸付が許可された翌年、愛知県から56戸が移住して開拓が始まった。
花畔地区では乳牛の飼育が行われ、昭和4年に砂地水田耕作を開始している。その後昭和51年(1976)に石狩河口橋の全工事が完了し、渡し船も昭和53年(1978)に廃止された。それにより道央と道北地域を最短距離で結ぶことになり、石狩沿岸地区の発展に寄与している。また発見が安政5年(1858)にも遡る石狩油田も明治36年(1903)から60年にわたり石油を生産し、昭和4年(1929)頃ピークを迎えている。
明治40年(1907)に花川村と石狩町が合併、一級町村制を実施。平成8年(1996)に市制を施行している。
堀田重良伝(©加賀谷 健 2005)